名取流の系譜

 流 祖 : 名取與市之丞正俊
 名取家先祖は、奥州名取郷の人。
 永禄年間(1560年頃)より甲州武田家へ先手者として仕え、武田信虎、信玄にも名を知られる武士となる。山本勘助に陣法築城法などを学び、真田一徳齋には学問、弓馬を学んでいる。
 天正10年甲州征伐の折には甲州先方吉原又兵衞組に与して戦うも、武田家滅亡後、信州へ落ちのびる。第一次上田合戦を戦った後、浪人となり晩年は信州真田にて暮らし、元和5年8月に没す。行年70余歳。

 武田家家中にあり、とりわけ真田との繋がりが強かったのかもしれない。

 二 代 :名取彌次右衞門正豊
 紀伊徳川家へ大番として仕える。扶持250石。
 正保4年7月病死。名取家の家督は六之助に200石をもって譲るが、流派は分家の三十郎が受け継ぐ。

 この二代の時代に、正豊もしくは正澄らが、家伝書に記載のある碎鑑禅師、神戸能房、楠不伝、島田潜齋、板坂卜齋らと関わり、流派繁栄の礎を築いたのではないだろうか。

 中 興 :名取三十郎正澄(正武) 彌次右衞門正豊四男 生国紀伊
      号<一水、籐 一水>
 承応3年5月 新規召出 中小姓から御所院番、御近習詰、大御番へと転役。
 (資料番号10486による転役記録)
    承応3年5月 新規召出 中小姓
   万治3年5月 大小姓 切米30石
   延宝7年9月1日 御近習
   貞享2年8月23日 大番組
   貞享4年8月22日 伊都郡大野村へ扶持を受けながら蟄居
 宝永5年3月15日 病没
  戒名 : 窮源院滴岩了水居士 

 著書多数にて、紀伊藩主特に初代徳川頼宣公の覚えがよかった。
 著書の中に日本三大忍術伝書の一つ「正忍記」がある。

 名取三十郎は、たびたび頼宣公の下へ出向き、軍学指南を行った。頼宣公をして「名取流の軍学書は人主たる者の座側において、折々看読すべき」と言わしめた。
 また、名取流は新楠流とも呼ばれる。
 楠流(楠不伝)の流れを汲んではいる名取流ではあるが、その意のみならず、軍術の全てを網羅し大変優れていることから、楠公の世に対する功訓に相当するものとしてこの名前がつけられたというのは、名取流がいかに優れた軍学流派であるのかを表すのに特筆すべき事である。

(追記鋭意作成中)

参考文献

姓氏家系大辞典、名取流軍学伝書、和歌山県史人物編、紀州家中系譜並に親類書書上げ目録、名取兵左衛門系譜(資料番号10486)、伊賀・甲賀忍びのすべて、歴史読本忍びの戦国史、忍者の教科書・新萬川集海 。

日本語記述:山本寿法(名取家菩提寺「大宝山恵運寺」住職、「正忍記を読む会」会長)